キャッシング審査では「個人信用情報機関」が大きく影響します。ここにその人のこれまでの借入・返済の履歴などの情報が保管されているわけですね。
いわゆる「ブラックリスト」の場合も、ここに「事故情報・異動情報」が記録されていて、それが原因で審査に通らなくなったりします。
ここでは、そんな個人信用情報機関が「どのようにして発生したのか」という歴史・経緯・成り立ちをまとめます。
*参考文献…『理解されないビジネスモデル 消費者金融』(藤沢久美・片野佐保・真水美佳・川島直子/時事通信出版局/2008年)P.46~P.55
目次
仲間内の情報交換会として、自然発生した
大抵の組織は自然発生するものですが、個人信用情報機関もそうです。まとめると―。
- 戦後の「金貸し」の時代は、一人一人を「人間的に」審査していた
- その後、高度成長期になると「大企業の社員」というだけでOKになった
- ↑(終身雇用で、給料も右肩上がりの時代だったので)
- しかし、融資する人数が増えてくると、それではダメになった
…で、何がダメになったのかというと、「審査自体」は別にいいのです。しかし利用者が「借り回り」をするようになったんですね。消費者金融が栄えた分「あちこちの業者で借りる」という人が増えたのです。
この時点では「多重債務」の問題というより―。
- 業者A「うちに駒田さんっていう、困った人がいてさ~」
- 業者B「あ、駒田さん、うちでも滞納してるんだよ」
…というように「問題がある人の借り回り」が、貸金業者の中で自然に情報交換されるようになったんですね。で、「もっと仲間を増やしたら、さらに危険な借り手を排除できるのでは?」ということで、このグループが広まっていったのです。
業界の拡大と、社会の都市化によって、組織化する
やがてもっと業界が拡大したり、社会自体が都市化して、「古きよき時代」が終わると、「しっかり管理された情報機関」が必要になります。つまり、今の個人信用情報機関のようなものですね。
この時代の要請に応じて、1970年代にあちこちで、今より小規模な「個人信用情報機関」が誕生しました。実は、黎明期の個人信用情報機関は全部小規模だったのです。
1972年、初の情報機関「レンダースエクスチェンジ」が創設
消費者金融業界で初の個人信用情報機関は、「レンダースエクスチェンジ」という組織。1972年に大阪で設立されました。(LEとも略されます)。
「レンダースエクスチェンジ」という英語は、訳すと「貸し手のための交換」。つまり「業者のための、情報交換組織」ということですね。
その後、1975年には「ジャパンデータバンク」(JDB)が東京で設立され―。
- 大阪…レンダースエクスチェンジ」
- 東京…ジャパンデータバンク
が個人信用情報機関の二大巨頭となります。大阪が先だったのが意外かも知れませんが、アコム・プロミス・アイフル・レイクなど、みんな大阪や京都からスタートしています。消費者金融は関西の方が強かったのです。
1976年、JICCの前身の組織「全情連」が生まれる
その後、1976年には「全国信用情報交換所連絡協議会」が誕生します。これが後に―。
- 1.全情連(全国信用情報センター連合会)に変わる
- 2.全情連が「テラネット」に変わる(クレカ・銀行系の情報も一部統合する)
- 3.テラネットが「CCB」を統合する(CCB…外資系・クレカ系も参加していた組織)
- 4.統合によって「JICC」(日本信用情報機構)となる
…という流れで、現在のJICCになっていきます。今、個人信用情報機関の中で消費者金融と一番関わりが深いのはJICCですが、このように「多くの組織が融合した」ために、管理する情報の幅が広がったわけですね。
で、その大本となった「全国信用情報交換所連絡協議会」は、それまでバラバラに存在していた、10の情報機関が「互いに連絡を取り合った」ものです。(連絡協議会という名前の通りです)
レンダースエクスチェンジや、ジャパンデータバンクのように大きくない、小さい個人信用情報機関が集まって、互いにデータを共有した…ということですね。
当初は完全な人海戦術で情報を管理していた
始まった当初、個人信用情報機関は「完全な人海戦術」で、情報を処理していました。ポイントをまとめると―。
- 情報はすべて「紙のカード」で管理されている
- それが「生年月日順&五十音順」で、ファイルに入っている
- 業者からの照会は、電話で受ける
- 電話を受けたら、すぐにカードを探し、内容を読み上げる
…という風です。探すのも大変ですし、保管しておくのも大変ですね。で、記録もまた大変で―。
- 業者で、利用者がお金を借りる
- 業者がその内容を、信用情報機関に「電話で連絡」する
- 信用情報機関の人は、それを「手書きでメモ」する
- そして、ファイルにしまう
…という風です。情報を管理する機関の人も大変ですが、借り手が来る度に「その人の情報を、信用情報機関に連絡する」という業者も、また大変だったのです。(今だったらデジタル化されているので、半自動的に送信されますけどね)
このように完全に人海戦術に頼るやり方だったので、スタッフさんの人数も膨大でした。ジャパンデータバンク、レンダースエクスチェンジのような最大手になると、常時100人~200人のスタッフさんが、交代制で勤務していたといいます。
情報の内容も、人間的だった
情報共有が始まった直後は、「記録の仕方について、統一のルールがない」状態でした。そのため、それぞれの業者から上がってくる情報が全然違ったんですね。そのため―。
- 借入金額
- 借入日
- 返済予定日
などの「まともな情報」だけでなく、下のような情報もありました。
- 支払い態度悪し
- 人相悪し
- メガネ
私は参考文献で「メガネ」の部分を読んで思わず笑ってしまったのですが、こういう「何か役立つかもしれない情報」は、当時の業者は全部メモっていたんですね。
そして、情報機関から「情報を提出してください」と言われた時も、とりあえず自社でメモった情報を全部報告していたわけです。そのため、黎明期の個人信用情報機関では、かなりバラバラ(ユニーク)な情報が集まっていました。
管理の煩雑さと、プライバシーの問題で、項目が統一される
で、当然ですがこれは―。
- 管理が面倒
- プライバシーの問題がある
…という2つの難点があります。特に「人相悪し」などは、融資担当の主観に過ぎないので、これが原因でその人が「他の業者で借りにくくなった」としたら、法学的には「経済的権利の侵害」となるのです。
そのため、借り手の主観的な印象や、身体的な特徴は記録しないという、現代では当たり前のルールが導入されます(特に身体的特徴については、差別ととられる場合もありますからね)。
こうして、個人信用情報機関は「規模が大きくなる」とともに「情報の内容」も現代に近づいていきました。
日本のプライバシー管理の先駆けとなる
キャッシング業界の個人信用情報機関がすごいのは、ただ「システムを整えた」というだけではありません。顧客情報のプライバシー管理でも、日本の先駆けになったのです。
先駆けになれた理由は―。
- 「借金」という人に知られたくない情報なので、絶対に漏洩してはいけない
- 貸金業自体のイメージが悪いので、社会から認められるよう、管理を完璧にしなければいけない
などの背景がありました。特にJICCの前身である「全情連」が「倫理綱領」を定めたのは1981年ですが、その4年前の1977年には、朝日新聞などを中心に猛烈な「サラ金バッシング」が起こっていました。
そういう世間の目が厳しくなる中で、キャッシング業界のプライバシー管理は、他の業界以上に徹底しなければいけなかった…ということですね。
OECDの「プライバシー保護の8原則」に合わせる
上に書いた通り、全情連は1981年に「倫理綱領」を定めました。21箇条のルールからなるものですが、この時、プライバシー権に関する第一人者だった、一橋大学名誉教授の堀部政男氏の監修を受けています。
堀部氏は、OECD(経済協力開発機構)で提唱された「プライバシー保護の8原則」を、日本で最初に広めた人物として知られています。そのOECDの8原則に合わせて、全情連の「倫理綱領」も作られていったんですね。
このように、当時のカードローン業界の個人信用情報機関は、ただ情報共有のシステムが高度だっただけではなく、「日本の民間組織の中で、一番早く高度なプライバシー権を確立する」という、社会的意義も果たしたのです。
1983年「貸金業規制法」によって、国から公式に認められる
ここまでの個人信用情報機関は、まだ「業者の情報交換」の域を出ていませんでした。規模は大きくなっていましたが、「公式に、国から認められたわけではない」ということですね。
しかし、これが1983年の「貸金業規制法」で、公式に認められます。この法律の「第30条」で「信用情報機関に情報を照会するなどして…」という内容で、「法律に初めて、信用情報機関という単語が登場した」のです。
こうして国に認められたのは、先にも書いたプライバシーの保護に率先して取り組んだ…などの理由が大きいでしょう。
以上、カードローンやキャッシングの審査でも大きく関係がある「個人信用情報機関」について、その成り立ちの歴史をまとめました(主に初期のみですが)。キャッシング・カードローン・クレジットカードなどの歴史に興味がある人に、参考にしていただけたら幸いです。